葬儀:お葬式をしない選択に自由を!

先日、街で高校生が「自分のお母さんが死んだら」という話をしているのを耳にしました。

「家」にお金がなくお葬式をあげられない、自分が稼ぐしかないといっていました。

この高校生のお母さんに残された時間がないとか、逆に全くの仮想の話なのかは分かりません。

ただ、もし残された時間が少ないのならその時間を大切にしてもらいたいなと私は思いました。

また、「お葬式があげられない」「稼ぐしかない」という事について、この高校生がお母さんとの「最後の時間」よりも「お葬式をあげたい」という気持ちになっているのならいいのですが

恐らく、「お母さんのために」という気持ちなんだと思います。

「お母さんのためにお葬式をあげる」普通ならこの考え方が「正当」なのでしょうか?

私自身も高校生がこんな風な事を言っていたら「立派だね」「偉いね」と思います。

ただ、考えて欲しいのです。

もうお母さんといる時間がない事が分かっているなら「一緒にいたい」と思わないか、お母さんも「一緒にいたい」と思っていないかを・・・

お母さんのためと思うなら、「一緒にいてあげる時間を持つ事」なのではないでしょうか?

お葬式は結婚式と違い予約制ではありません。

亡くなった後は慌ただしく当日を迎えます。

「お葬式をあげる」ためにこの少年が「稼ぐ時間」は「お母さんが生きていられる時間」なのです。

この時間をお母さんと過ごせないことは「お母さんのため」ではなく、まさに「お葬式をあげるため」になってしまいます。

私はこう思うのです。

「お母さんが亡くなった後の事を考えるのは仕方がないけど、お葬式の事なんか考えなくていい。」「今はただ一緒に過ごして思い出を作って欲しい」

どうして、「もう時間がない」という時に「お葬式」の心配をするのか。

それは、古くからの日本の伝統「故人の最後は立派に」とか「最後の花舞台」などという「終わりを大事に」する「精神」が今の時代では「お葬式はしなきゃいけないもの」「普通はするもの」だからという変な常識に変わったからだと考えます。

葬儀は本来「人が亡くなる」という大事をしり、今ある生を大切に生きる事を学ぶ場であると言われています。

だからこそ、日本人は「お葬式」を大事にしてきたのだとは思いますが、このよう少年の悩みを例にとってみると「お母さんのためにお葬式をあげたい」そう思った時点で葬儀本来の意味という点では「学んでいる」と言えるのではないでしょうか?

この少年に限らず、誰だって「もし、自分の親が死んだら」という事は考えたことがあると思います。

大切な人を亡くした時の事を考えると、その時の喪失感に耐えられるのか、その先の人生をどう生きたらいいのかと不安になのは仕方のない事だと思いますが

その考えの中にちゃんと「お葬式あげられるかな」と思った事はありませんか?

それが「お葬式はこんな風にしよう」とか「どれくらいの人を呼ぼう」とか前向きに計画を立てるためならいいのですが。

大切な人を送る事を重荷には感じないでください。

いざ、お葬式を迎えても「お別れに集中できない」ような葬儀を無理にしないでください。

今の時代は、色々な葬儀の形があります。

一般葬、音楽葬、家族葬、密葬、火葬式(直葬)などがあり費用は左から順に低くなります。

この中の火葬式が「式」をしない形ですが、お別れの時間はもてます。

ひと昔前のように「お葬式」を近所で助け合い、立派に盛り立てる時代ではなくなった今。この様に葬儀の形は選ぶことができます。

日本の伝統から変化した間違った常識に囚われる事がなければ、「お葬式」を考えすぎずに無理のないお葬式を選ぶ事ができ。

家族でのお別れの時間を大切に考えられるのです。

お別れまでの時間、今ある時間を大切にして下さい。

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